昭和五十七年十月十二日 朝の御理解


 御理解第七十五節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」


 信心生活とは、やはり祈りに明け暮れることだと思うんです。祈ると言うても、和賀心を焦点にしての祈り。勿論お道の信心はそれであります。もう本当に眠っておっても、やはり人が助かることのために祈っておれるような、寝ても覚めてもそういう祈りに明け暮れる信心を身に付けて行きたい。また、身に付けて行くことが一年一年有難うなって行くことだと思うんです。
 ところが、祈りに明け暮れると言うても、教祖金光大神のいわゆる「人が助かることさえ出来れば」という祈りを。祈って人を殺める殺すというような祈りもやっぱあるわけですね。
 昨日、末永先生の所から、若先生宛に沢山手紙が参っております。御大祭の、市長さんからのメッセージを出される。大変おかげを受けた方が、自分のメッセージも一緒に送ってくれと言うて持って見えた。
 別の州の方らしいんですけれども、大変におかげを頂いたブラジル人の方ですが、何か建設関係の仕事をしておられて、もうどうにもこうにも行き詰まっとるとこを、御取次頂いて助かり、夫婦間のまた人間関係のどうにも出来ない問題が、末永先生の御取次を頂いておかげを頂いたと。自分の書いたものを日本語に訳して手紙が参っておりました。
 また次の末永先生の手紙の中に、この方は一月に百六十名のお導きが出来たと。すさまじいですね。自分がおかげを受けられた喜びを土地の新聞に依頼されて、おかげを受けられた話をまあ掲載されたといったような、まあ特殊な神様に本当使われておられると思うんですけども。
 どういうわけで末永先生が話す合楽理念というものがそんなにまあ受けておるかというと、あちらではね、今日の御理解ではないけれども、祈って人を殺すというような宗教が、もう巷に一杯あるんだそうです。
 いやこれはこの頃テレビで見たんですけども、まあその祈って、ここで昔で言うならば、まあ丑三時に、こうワラ人形に五寸釘というようなことがありましょうが。あれと同じような祈り。そしてまた、事実そういうその働きのあるところをテレビで見せておりましたが。本当に、信心して祈りに明け暮れるということなんだけれども、その祈りに明け暮れるその内容が、人が助かることさえ出来ればという、祈って人を傷つけたり殺したりというような信心もある。
 そういう中にあって、合楽理念を聞かれた、また合楽理念を聞くことによって、もうびっくりしてお道の信心に飛び付いておられる人達ではなかろうかと言うふうに思うんです。そしていわゆるまあ言うならば、天地の大恩をおぼつかぬながらでしょうけれども、を語り、一切神愛を語り、そこに私は、あのうあちらの方は次々と助かって行く、おかげを受けて行くものがあるんじゃないかとこう思いますね。
 私、昨日その手紙を聞かして頂きながら、まあ本当に今年は合楽の十五年という記念祭に、元旦に、芽が出るというような、「節から芽が出る」というようなお知らせを頂いたが、南米の方に芽が出よるのじゃないかと言うふうに思いましたですね。もう本当に手紙を細々しく聞かしてもらうと、ただすさまじい神様の働きに恐れ入ってしまうんですけれども。まあ今日の御理解とはちょっと関わり合いのないような話ですけども。
 ならブラジル国辺りには、祈りに明け暮れる生活を信心生活だとこう私共は言い、しかもその内容は「人が助かりさえ出来れば」の心の状態。ところがその南米辺りでは、祈って人を殺すというようなね。まあすさまじい、まあその悪の宗教でしょうか。そういうようなのがある。そういうことがその周辺に一杯あって、まあそれを信じておる人達の中に、正しい宗教があると。しかも簡単です。明瞭です。おかげが確かですといったような、まあ合楽理念に基づく助かり。
 昨日も東京からと言うてお参りになった方が、もう合楽の御本をもうここに合楽にある御本の全てを読んで、ある教会の先生が「貸してくれ」と言われるから貸したら返しなさらん。それで、今度また一通り求めて帰られましたが。
 もう本当にここで言われる御理念の素晴らしさということは、もうとにかく、ただおかげの確かさということだけではなくて、言うならば、先だって見えた東京からの先生じゃないですけれども、「教祖金光大神この世におわしなさばね、合楽で言われるような教えを説かれるだろう」と言っておられますようにですね。そういう金光大神の御教えの内容にあるものが、まあ言うなら現代風にというか、私共にも頂ける感覚で教えを頂いておるのが合楽理念です。
 ですから、それを実験実証するという。そういう実験実証がね、南米の地に、しかもそういうすさまじい働きを起こしながら広がっておると。それこそ止むに止まれん思いで、今度の記念祭にそのメッセージを送られ、また教祖百年祭には、あちらから沢山参拝もさせて頂かれるということでございますがね。そういう働きが起こっておるのですね。
 だから本当に、お道の信心はどこまでも「人が助かることさえ出来れば」というのですからね。例えば心で人を傷つけたり、殺したりというようなことがあって良かろうはずはないのだけれどもね、やっぱりよくよく検討してみるとね、そういうような内容がないじゃない。そこで、私共が祈りに明け暮れる生活を信心生活だと。それも祈りの中に、人を殺すような祈りもあるんだけれども、まあ金光大神の場合は、人が助かることさえ出来れば。
 これは私思うんですけれども、今朝もそうでしたけども、寝とる間、とにかく朝の御祈念をそれこそさしてもらう。その御祈念の内容を寝ながら御祈念をしておるお夢を頂いて、今朝から目が覚めたですね。もう寝ても覚めても人が助かることが祈れれる一つ信心を頂きたい。祈りに明け暮れておったら、自分の心の中に、傷つけたり殺したりするような心も起こるはずはありませんね。
 けどもそれを、その祈りというものをね、今度はその反対からね行くと、今言うごと人を傷つけるだけじゃない、人を祈り殺すという祈りもやはりある。そういう言うならば信心が巷に広がっておる南米でね、合楽理念を聞いて、もうそれこそびっくり仰天して、飛び付くようにしておかげ頂いておるという事実をね、昨日聞かせてもらって、まあ今日の御理解になったわけですけどもね。
 まあ私共が祈ると言えば助かると。人の助かることさえ出来ればという内容で勿論なからなければならない。それもね、ただ寝ても覚めても、明けても暮れてもそういう祈りの内容を、いよいよ持ちたい。そういう心こそ、いよいよ和賀心だと言うふうに私は思います。
どうぞ。